それはまさしく無限に続く地獄のようであった。
日の出を見るのはこれで何度目だろう。と小平太は思った。
瞼がいやにむず痒く、どろっとしている。とうとう眠ることができなかった。
両の掌で自らの瞳を包み込むと死人のように冷たい顔の温度を感じ、小平太はいっそ泣いてしまいたい思いであった。
そしてまた同時に、幾度も脳裡を過っていった気味の悪い卑しさに、歯の噛み合わぬような苛立ちを感じていた。
(馬鹿じゃないのか私は。)
ややもすると意識は左へ左へとふらついていく。
視界だけでも真正面の薄汚れた寒々しい壁に固定させておこうとするのだが、そうすればするほど、笹を擦り合わせたような寝息が木霊して聞こえる。
その左隣から聞こえてくる微かな寝息は、その穏やかさからは想像もできないほど暴力的に小平太の煩悶を支配し、呼吸もままならないくらいに体を痺れつかせてしまう。
しかしそれはなんて甘い痺れなのだろう。
小平太は怯えたように深呼吸をする。薄墨の朝のにおいに胸がきんと軋んだ。
寝息の発信源に視線を移すと、そこにはやはり見慣れた級友の姿がある。
中在家長次。
級友というよりは戦友といった方が正しいかもしれない。彼は学園に入った頃から自分と寝食を共にし、切磋琢磨し、脱落していった仲間の中の生き残りなのである。
性格は小平太とは随分対極にあるといえるが、それがかえって良い方に働いたのか、派手にぶつかることもなく互いに気心の知れた仲となった。
小平太にとって長次は、今や誰よりも信頼のおけるパートナーである(そして長次にとってもそうである、と小平太は信じている)。
(なのに、何故私は、裏切るんだ。)
狭い部屋、冷やされた静寂、ため息はやけに響いて聞こえる。
普段の仏頂面が思い出されないほどの優しい寝顔を晒した長次は、普段の話し声と同じくらいささやかな寝息を漏らす。
その唇を塞いでしまえばもしかすると……、いや、いけない。もし長次の鼻が詰まっていたら息苦しさで目を覚ましてしまう。
そうなったらきっと長次はあの静かな非難を含ませた目で私を睨みつけて、私のしたことを無言で問うだろう。
そしたら何て答えればいい。「長次のせいで眠れない」だなんて言えるものか。いや正確には長次のせいなんじゃない。自分の卑しさのせいなんだ。
そう、寝惚けてたって言えやしない。
長次の寝息を奪ってしまいたいだなんて。いや、
長次を、抱きたい、だなんて。
そこまで考えが及ぶと、小平太は再び自ずと両目を塞いだ。
自分はきっとおかしいのだ。病気なのだ。
戦友の彼を抱きたいなどとどうして思うのだ。それもただ抱きしめるのではなく、女のように激しくえぐってしまいたいだなんて。
なんて酷い裏切りだろう。
この残酷な欲望は何の前触れもなく、気がつくと存在していた。
そして気がついた時には既に取り返しのつかない範囲まで及んでいたのだ。
脳をぶよぶよと腐らせ、瞳を焼き払い、手足を凍らせた。そのくせ神経だけはぎらぎらと勃起していく。
世にも恐ろしい病に侵された心はあっという間に地の底に堕ちてしまった。
夜ごと、あの寝息を耳にすると思わず意識が集中してしまう。
薄く開かれた唇から吐き出された息がむき出しの欲望を撫で上げていくように思われる。
長次の蒲団をめくりあげて、夜着の合わせに手を差し込んで、肌に触れて、接吻して、…………、……………
妄想は重なり、だんだんとリアルになっていく。
穏やかな寝息が湿り、乱れていく様さえも。
あまりに現実味を帯びていくそれに騙されて、何度長次の蒲団に手が伸びたかわからない。
眠ってしまえばよいとは思うものの、目を閉じると余計に寝息が気になり、それをきっかけに同じ妄想が繰り返し流れ始めてしまう。
眼を閉じても開いても、そこにはいかにもみだらな、むき出しの光景が貼りついている。
一度でもいい、その肌に触れてみたい。
一度でもその肌を堪能できたならば、この醜い欲は昇華され、もう二度とこんな考えには至らないかもしれない。
しかし一度でもその肌に触れてしまったら……もう長次と自分は今までの戦友ではいられなくなってしまうだろう。
そして最も危惧すべきは、自分がその肌の味を知ってしまったためにそれ無しではいられなくなって、今まで以上の病気になってしまうことであった。
……、……ここは、なんという地獄だろう。
小平太がこの病の本当の恐ろしさに気づいた時、なかば叫びだしてしまいそうになったことは言うまでもない。
「ひどい隈だな」
廊下で突き合せた仙蔵が、白い顔の中の柳眉をめいっぱい寄せて指摘した。
その鋭さといったら!
自然と眼の下を擦る己の右手。
隈にはまるで気がつかなかった。随分眠っていないから目玉を重たく感じてはいたのだが、他人の目に見える形で自分の体は立派に主張をしていたらしい。
瞬間、井戸水を背中に垂らされたように、ぞーっと胃が硬くなった。
まずい、もう長次にばれてしまっているかもしれない。私が眠っていないことが。どうしたらいい!
訊かれたら何と答えればいいんだろう。そうだ、いっそ別の部屋で眠ることを提案してみようか。
その方が長次の身も安全だろうし、私が寝息に煩わされることもない。でも待てよ、そんな提案をしたらもっと勘繰られるにきまってる。ああ!
それに一緒に寝るのは嫌ではないんだ。やはり隣には蒲団があって、長次が寝ているべきなんだ。
ああ、どうしたらいいんだろう!なんだかひどく吐きそうだ。
不意の異物感の次の墜落。無重力。
――光が見える。今、ちらと見えたのは…仙蔵の掌だろうか、それとも違う誰かの、まさか
暗転。
そして次の瞬間にはもう、既視感の恐怖。
見慣れすぎた天井の大きなどす黒いしみ。見つめすぎた故にそんなにも黒いのか。まるでそれは小平太自身の中になお渦巻いている欲望の色のようだ。
寝床の乾いたにおい。ここが自分の蒲団の中であることがわかる。それを認識すると、どうしようもない自分の意地汚さをも見つけてしまう。
体を横たえたまま大げさに咳払いをすると、喉の下らへんに微かな違和感があるのに気付く。そういえばこの場所に意識が飛ぶ前に嘔吐したような覚えがある。
どうにも遣る瀬無い。また気分が悪くなってくる。頬の内側が引っ張られ、口内に甘い唾液がじわじわと滲みだしていく。
それとも、あれは夢だったのだろうか。いったいどこからが夢なのかもわからないが、夢を見ていたのだとしたら、浅くはあるにしても眠れたということになる。
それにしては寝起きのすっきりとしただるさが感じられない。それどころかますます体が沈むように重たくなった気がする。
あるいは眠っていたのではなく、ずっと目覚めていたのかもしれない。眠っていない所為で頭が混乱し始めた際に見せたとりとめのない映像だったということもありうる。
(迂闊だ。何の手がかりもない。)
小平太は今朝方したような深呼吸を幾度となく繰り返した。
そして頬を濡らしているものを拭いもせずに、またもさめざめと妄想に沈んでゆくのであった。
ここは地獄か現し世か。
しかしどちらがより残酷かなどとは知る由もない。
了
煮え切らない気持ちを書いていたら自分までぐらぐらした。
結局どうにもなってない話。まさにやおい。